鉄の壁

数日前に学校を卒業する直前に頂いた寄せ書きを眼にしました。
本棚につもったほこりの掃除をしているときに見つけて、偶然読んだのです。
その中で響いた言葉が「もっと他の人に表現するということを考えてみよう」です。
考えを一気に飛躍させると、私は人の眼を気にしすぎていますということです。
人は触れてみないとわからないことがたくさんあります。外側だけではすべてを判断できません。
誰だって初めてのことに挑戦したりすることは、不安や恐怖を感じると思います。
それを克服すべく自ら努力したり、きっかけという幸運に巡りあって乗り越えていきます。
これが健全というものです。


文章を書くという気持ちで書こうとするとうまくかけないので、ここからさらに口語っぽく書きます。
いつから始まったのかわからない行動があります。
5歳だか6歳くらいのころ、夜中眠れなくて眼がさめたり、眠りからさめると最終的に親が寝ている寝室に足をはこびました。
足を運んだだけです。部屋の前までいくまでにベッドと親の寝室までを何十回も行き来したのです。
寝室のドア(ということにします)をあけようとすると、心臓がどきどきして手が止まってしまいます。
夜中だから寝ている親を起こしたらかわいそうだからドアをあけてはいけない、などそんなことを考えていたのかどうかは忘れてしまいわかりません。
ドアのむこうでこそこそしている私に親が気付くまでこのようなことの繰り返しです。
オチは親が「○○か? どうした?」のような事を言って、自分は「眠れない」のような感じのことを言ってようやく寝室のドアをあけることができたのです。
もしかしたら現在の親が寝ている時に小さな物音でも反応するのは、上のようなことがあったからかもしれません。
そうだとしたらごめんなさいすみません。ここで書いてもしかたないですね……。
謝る事も重要ですがそれ以上に喜ばせることに力を注ぎたいです。
話を戻すと、そういった行動が幼少のころから目立っていたとすれば、おとなに成長するほど社会不適応の要素がにじんでくるのかな。


相当以前から自分でも気付いてました。インターネットのおかげで病院にいかなくても、簡易的ですが様々な症状のチェックができるようになって便利になりました。
ただしどれもこれも当たり障りがないというか、あの症状もあてはまる、この症状もあてはまるといった納得のいかない結果が多いです。
やはり最終的には病院か、ということです。
悩んでいるといえば悩んでいますが病院にいくほどでもないとも感じています。
病院にいったって気休めの薬がでるだけです。結局自分はなにもかわらない。おまけに副作用があります。
ここまでちょっと今までにない自分の内面を見せびらかしましたが、それでも書きたくても書けないことがあります。
上にあるような幼少のころのジレンマと同じ状況です。
これが自分にとっての最大の壁です。